多くの神社や寺が集まる京都には、変わった神社仏閣が多いですが、実は大阪の方が京都よりお寺の数が多いのです。
そのため、京都以上に変わった寺社があふれています。
今回はそんな大阪にある不思議な寺社の歴史についておまとめしました。
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鎌八幡(大阪市・天王寺区)
真言宗・円珠庵、通称「鎌八幡」は悪縁を断つ寺として知られています。
鎌八幡の奥には大きな木が立っており、そこにはしめ縄が巻かれた木におびただしい数の鎌があります。
1614年に起きた大阪冬の陣で、豊臣秀頼軍が徳川家康軍の倍以上の軍勢に勝利しました。
その合戦の前に豊臣側の武将「真田幸村」はこの霊木を訪れ、戦いの悪縁を断ち切り戦に勝てるようにと鎌を神木に打ち、祈願したそうです。
古来、日本では神木に鎌を打つと願いが叶うとされていました。
そして真田幸村の願いは神に届き、大阪冬の陣で見事に敵を打ち破ることができたのです。
この地では、この出来事以来、多くの人々が鎌を打ち込み悪縁を断ち切れるようにと祈願するようになったのです。
御霊神社(大阪市・中央区)
大阪随一のオフィス街、淀屋橋には不自然に立ちはだかる石造りの鳥居があります。
ビルの裏には神社があり、この鳥居は「御霊神社」のもの。
江戸時代、現在のビルの場所には「宝城寺」という寺が建っていました。
しかし、明治に入ると神仏分離令によって神社と寺を完全に区別することになり全国各地の寺が政府によって壊されたり、土地を没収されたりしてしまったのだそう。
御霊神社の神主は「この土地まで神社があったことを後世に伝えたいため鳥居を建てさせてほしい」とお願いをした結果、敷地の端にこの鳥居が建てられました。
今でも、この鳥居を誰も壊そうとはせず、ビルの守り神としてその役目を果たしています。
歯神社(大阪市・北区)
大阪北エリアの中心地、梅田。HEP FIVEから徒歩30秒の所に小さな社があります。
この神社は、日本で唯一の歯の神社で「なで石」と呼ばれる石をなでて歯の痛い所を触ると痛みが和らぐと信じられています。
江戸時代中頃、村には大きな石があり、田畑を守る神様の御神体として大切にされていました。
しかしある時、大雨が降って川が氾濫。当時の梅田は海抜0メートルの地帯で、大雨が降ると頻繁に川が氾濫し、村が水没の危機になっていました。
この時、大水の「歯止め」になっていた事から歯痛止めの神様と崇められるようになったのです。
そして現在、毎年6月4日に歯神社では例大祭が行われています。
歯医者や歯科技工士、歯ブラシメーカーの関係者などが集まり、歯の健康を祈願しています。
土佐稲荷神社(大阪市・西区)
地下鉄、西長堀駅から徒歩3分、大阪市立中央図書館の裏に「土佐稲荷神社」があります。
境内を囲む玉垣を見ると、日本を代表する大企業の名が並んでいます。
江戸時代、この辺りには土佐藩の大阪藩邸や蔵屋敷がありましたが、明治維新を迎え土佐藩は深刻な財産難になりました。
その中で、才能を買われ事業を任された「岩崎弥太郎さん」は藩の借金を肩代わりし蔵屋敷とその土地の中にあった神社を引き継ぎました。
岩崎弥太郎さんは蔵屋敷で暮らしながら、神社に毎日祈りを捧げ、やがてその願いは届き、事業は見事に成功。
この時、会社につけた名前が「三菱商会」でした。岩崎弥太郎さんは日本を代表する三菱グループの創始者だったのです。
そしてここを三菱グループ発祥の地として祀られるようになりました。
玉造稲荷神社(大阪市・中央区)
JR環状線・玉造駅から徒歩10分にある「玉造稲荷神社」。
発祥は弥生時代と伝わる歴史の深い神社で、大阪城ができた後はその守り神として崇められています。
そんな神社の境内には、半分に割られた誰もくぐれない鳥居があるのだそう。
この鳥居はかつては使われていましたが、阪神淡路大震災で損傷してしまい、取り外されたのです。
現在、神社には新しい鳥居が建てられているため、損傷した鳥居は必要ありませんが大切に保存されています。
1603年、大阪城の守り神であるこの神社と深い繋がりのある豊臣家最期の当主「豊臣秀頼」が鳥居を寄贈しました。
「秀吉像」は全国各地にありますが、「秀頼像」があるのは日本でここだけ。
秀頼と言えば、母「淀殿」に甘やかされ頼りない印象がありますがそれは後に「徳川」が作り上げたイメージで、実際は身長190cmを超える堂々とした体格で聡明な人物だったと記録が残っているそうです。
1615年、大阪夏の陣で「家康」が勝利すると「淀殿」と「秀頼」は自害し、豊臣の子孫を根絶やしにしました。
それでも大阪の人々は、死後400年が経った今も秀頼が寄贈した鳥居をたとえ使い物にならなくなったとしても、豊臣への恩義を決して忘れず大事に保存しているのです。
また、1983年に鳥居の横に建てられた胞衣塚大明神には、秀頼が生まれた時の胎盤を祀っているそうです。
少彦名神社(大阪市・中央区)
大阪ビジネス街の中心地、道修町の隙間にある「少彦名神社」。
境内に入ってみると本殿の中心、一番重要な場所に置かれているのは「張り子の虎」。
江戸時代、道修町は薬の町として知られていました。
1822年、大阪でコレラが大流行し大勢の死者が出てしまい、道修町の薬商人たちは協力し、虎の頭蓋骨など10種類の和漢薬を調合した薬を作りました。
薬の原材料に使われた虎の頭蓋骨とかけて、少彦名神社の張り子の虎のお守りと一緒に配られたことが大評判になり張り子の虎は神格化され、少彦名神社の代名詞となったのです。
法清寺(大阪市・北区)
大阪随一の飲み屋街・曽根崎のビルの谷間にある「法清寺」。
境内に入り、お堂をよく見てみると「大量のしゃもじ」があります。
この寺は通称「かしく寺」と呼ばれ、ある悲しい女の物語が隠されているのだそう。
江戸時代、曽根崎の遊女だったかしくは、その美しさで武家に身請けされ慎ましく暮らしていました。
普段おとなしい性格でしたが、酒癖が悪かったそう。
ある日、酒に酔った勢いで兄を殺してしまったかしくはそのまま捕らえられ死罪となってしまったのです。
かしくは最後の頼みとして、油揚げを貰うと、油揚げの油で髪を整えました。
死の間際でも美しくあったその姿に人々は魅了されたといいます。
兄殺しの罪が許されることはありませんでしたが、かしくは人々に愛されながら亡くなりました。
やがてかしくの墓で「かしくの墓石を削って飲むと禁酒できるようになる」と噂されるようになり酒に悩む多くの人が、かしくの墓を削りに訪れるように。
おかげでかしくの墓はボロボロになってしまい、墓になっても身を削られるかしくを哀れんだ住職は、飲酒に悩む人々に墓石代わりにしゃもじを授けるようになったそうです。
お酒はお米でできている事から、また、しゃもじでご飯をすくう。
苦しみから救う意味があると言われています。
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