世界的に有名なナヴォイ劇場やイースター島。今ではどちらも観光地として有名ですね。
一見、日本には関係ないように見えますが、これらの歴史の裏には実は日本人が活躍しています。
今回は、そんな世界と日本が紡ぐエピソードをおまとめしました。
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ウズベキスタンのナヴォイ劇場は日本人の捕虜が建てた
ウズベキスタンといえば、「ナヴォイ劇場」が有名ですが中央アジアではもっとも格式が高い劇場として知られています。
実はこの劇場には日本が愛され続けられる秘密が隠されています。
1945年、日本は敗戦。ソ連は多くの日本人を捕虜にし、当時ソ連の一部だった「ウズベキスタン」の労働施設へ送りこんでいました。
そこで日本の捕虜たちを待っていたのは、「劇場の建築」でした。
しかし、毎日朝早くに起床し、へとへとになるまで作業を続け、まともな休日もなく、さらに、食事も粗末で半分腐ったじゃがいもや骨ばかりの羊の肉、小麦と水だけという事もよくありました。
ですが、それでも諦めずに捕虜たちは「日本人としての誇り」だけは失わなかったのです。
彼らはひたすら働き、しばらくすると地元の子供がパンや果物を差し入れするようになりました。
そんなある日、パンや果物が置いてあるいつもの場所に手作りのおもちゃが置いてありました。
強制労働で疲れ切った体にも関わらず、日本人は受けた恩に対して精いっぱいの感謝を伝えようとしたのです。
しかし、そんな毎日が続くと栄養失調と過労で毎日誰かが倒れ、帰らぬ人となっていきました。
そして2年の月日が流れ、ナヴォイ劇場は遂に完成。
威風堂々とした外観、美しい模様や繊細な彫刻。
過酷な労働条件の中、館内の細部の装飾にまでこだわりぬかれていました。
関わった日本人の捕虜は500人。そのうち79人が建設途中に亡くなりました。
時は過ぎ、完成から20年後、ウズベキスタンに大地震が起きたのです。
町の建物は崩壊し、辺りは一面瓦礫の山に。しかし、そこでウズベキスタンの人々は「奇跡」を目の当たりにしたのです。
そこには変わらぬ姿で凛と建つ、無傷なナヴォイ劇場がありました。
彼らは日本人たちの仕事ぶりに敬意を表しました。
1991年、独立国家となったウズベキスタン。劇場に日本人たちの功績を称えるプレートを掲げました。
その際、大統領は「彼らは恩人だ。間違っても捕虜などと書くな。」と支持したといいます。
そしてあの強制労働で亡くなっていった日本人たちは、今でもウズベキスタンの地に眠っています。
故郷に帰る事のできなかった彼らの為に墓地には多くの桜の木があるのです。
イースター島のモアイ像は日本人が修復
太平洋に浮かぶ小さな島。「イースター島」。ここには遥か昔に石で作られた巨大な人の像「モアイ像」がおよそ1000体以上もあります。
モアイとは、「未来へ生きる」という意味。古いものは1000年以上前に作られたといいますが、何のために作られたのかは未だに分かっていません。
部族間の抗争や風化、大きな地震により、200年近くもモアイが倒れたままになっていました。
そんなある日、「クレーン会社タダノ」の社員、高木啓行さんがテレビの番組で放送されていた横たわるモアイ像が映っている様子を見たのです。
そこでは島の知事が現地からのインタビューを受けていて、「クレーンがあれば修復できる。モアイ像を立て直したい」と呼びかけていました。
そこで高木啓行さんは「クレーンなら会社にある。モアイ像を立て直そう!」と思いついたのです。
そして社長に相談し、「モアイ修復プロジェクト」がスタートすることとなりました。
ですが、何の知識もなく始めた企画。
まずは図書館に通い、モアイやイースター島についての勉強から始めました。
そこで、イースター島までクレーンを運ぶのに船で1ヶ月以上もかかることが判明し、さらに、島には小さな漁港しかないため大型船は入れず、クレーンが運べないこともわかりました。
このままでは企画を決行できないため、チリの大使館に直談判し、チリが全面的に協力してくれる事になりました。
チリの海軍が特別な船を出してくれる事になったものの、その船の大きさに合わせてクレーンを改造しなければならず、他にも沢山の費用がかかることも判明したました。ですが日本の政府はどこも協力してくれませんでした。
その費用はなんと1億8000万円。
どこに相談してもっ誰も協力してくれずどうしようもなくなった高木さんは社長に相談すると、「もうチリの軍隊が動いている以上、企画の中止はできない。費用は全額会社が負担しよう」と言ってくれたのです。
その後、早速タダノはモアイと同じ材料を使ってレプリカを作り、何度も何度も持ち運ぶ練習を繰り返しました。
1992年9月のこと。イースター島にクレーンが上陸しました。
まずは入念にモアイの状態をチェックし頭と胴体を修復。そして11ヶ月後、待ちに待ったモアイの設置をしました。
それから2年後、15体のモアイが整列しました。
そうしてタダノはこの時の功績が認められ、2007年には奈良の高松塚古墳の修復やカンボジアの世界遺産、アンコール遺跡の修復作業にも携わっています。
株式会社タダノ
タダノは建設用のクレーンや車両積載形のトラッククレーンや高所作業車などを、製造および販売する世界最大手級の建設用クレーンメーカーです。 製品には油圧技術が用いられているのが特徴です。
モアイ修復プロジェクト後、「モアイの模刻」を香川県高松市へ寄贈しました。
その翌年、高松市女木島に設置されました。
アメリカ、バーグ艦長による「トモダチ作戦」の裏側
甚大な被害となった東日本大震災。この時アメリカ軍は「トモダチ作戦」と銘打ち復興を支援しました。
実はこの話の裏側には60年以上も前に繋がるもう一つの物語が存在します。
昭和25年、まだ戦争の痛手から抜け出せない日本に一人のアメリカ人がやってきました。
その人物はアメリカ海軍提督の「アーレイ・バーク」。
彼は太平洋戦争の中でも特に激戦となった「ソロモン海戦」で日本の脅威となった人物。その戦いで両国あわせて9万人以上もの兵士が犠牲となりました。
彼は海軍副長として日本に赴任しました。当時、東京の帝国ホテルにチェックインした彼は、従業員に話しかけられると、「最低限のこと以外は話しかけないでくれ」と言いました。
敵だった日本人をとにかく嫌い、侮蔑していたのです。あの血みどろの戦いで多くの仲間や部下を失っていたからでした。
どれだけ多くの従業員が話しかけても、無視をしていました。消えない心の傷は激しい憎悪へと変わっていきました。
赴任から1ヶ月ほど経ったある日。彼は部屋に戻ると買ってきた花をコップに挿しました。
このささやかな花が意外な事態を招くのです。
翌日、夜勤から戻った彼は、コップに挿していた花が花瓶に移されていました。
そして花はその後も増え続け、部屋を華やかに彩っていきました。
一体誰の仕業だと思ったバークはフロントに行き、聞いてみるとそれはホテルのサービスではないことが分かり、さらに調べてみると、彼の部屋の担当の女性従業員が花を飾っていたということがわかりました。
彼女はわずかな給料の中から花を買い、バークの部屋い飾りつけていたのです。
それを知ったバークは、彼女になぜこんなことをしたのか尋ねてみると、「ただお客様に居心地よく過ごしてほしかった」ということを知りました。
さらに話を聞いてみると彼女は戦争未亡人で、夫はアメリカとの戦いで命をおとしていたということが分かります。
二人は同じ境遇だと知ったバークは次第に心のシコリが取れていきました。
その後彼は、日本が占領状態から一刻も早く解放されるよう、アメリカ政府い働きかけ米軍の日本統治を終わらせることに尽力しました。
そして東日本大震災でいち早く駆け付けたのは空母「ロナルド・レーガン」。
艦長の名は「トム・バーク」。アーレイ・バークの孫だったのです。
そして今でも「アーレイ・バーク」の想いが受け継がれているのです。
台湾の教科書に載っている日本人の活躍
東日本大震災の被災者を案じ、台湾からの義捐金は200億円。台湾の人たちはなぜそんな大金を日本に送ってきてくれたのか?
それは日本をとても愛しているからなんです。その裏には台湾人なら誰もが知っている物語があります。
1895年、日清戦争に勝利した日本は台湾を治めることになりました。
日本政府は国内の食糧不足を補うため農業強化を打ち出しました。
しかし、台湾一大きい「嘉南平野(かなんへいや)」は作物がほとんどとれません。
乾季は日照りで飲み水さえなく、雨季では洪水が起こるため水事情がとても悪いのです。
そこに土木技師として「八田與一」という人物が派遣されました。
彼はダムの建設のため台湾にやってきました。
そこで彼が提案したのは、「烏山頭(うさんとう)地区」に大規模なダムを作る事でした。
しかしここでダムを作るには規模が大きすぎるため非常に難しく、計算されたダム建設予算は当時の台湾総督府の予算1/3にもなるため、ダムの規模縮小を強要されたのです。
それでも彼は「一時しのぎのダムではなく、農民たち全体が豊かにならなければ作る意味がない」と主張を続けました。
その3年後、粘り強い交渉の末、費用の半分は現地農民たちが担うことを条件にダムの建設許可を得ることができました。
ところが、台湾住民たちはダムの建設費用負担に大反対しました。
八田はダムの必要性、子供や孫、後世の子供たちも安心して暮らせる平野を作り上げることを粘り強く説得し続けました。
そして日本人・台湾人合わせて約2000人の作業員と共にダム建設が始まりました。
ダム建設は非常に過酷な労働であり、それに携わる人たちのためにも、八田は労働者の家族も一緒に住める宿舎の建設を政府に訴えました。
そして、現場の近くには小さな町を建設しました。
そこには学校や病院などの公共施設や映画館、テニスコートなどの娯楽施設もあいました。
そうして八田は過酷な環境の改善に努めました。
上からではなく、同じ目線で仕事をする彼の姿勢に心を打たれ台湾の人たちも次第に心を開いていきました。
地元の反対も弱まり、工事も順調に進むかと思われた1923年のこと。
日本で「関東大震災」が発生しました。
日本政府は台湾のダム建設どころではなくなり、ここにきて、ダム建設お費用を大幅にカットされる事態になりました。
この時、台湾人の労働者の多くをクビにして人件費を削減するよう指示が出されたのです。
この噂は台湾人作業員たちの間でも広まっていました。
ところが、なんと八田が解雇したのは多くの日本人ばかりでした。
それは「完成したダムを使用する者がダムを作ってほしい。そして将来、このダムによって潤った平野で農作物を作るのは台湾人だから」という理由でした。
こうして、再び台湾人によるダム建設が進められたのです。
そんなある日、ダムの建設現場で爆発事故が発生しました。
死亡者50人以上、負傷者100人以上の大事故でした。
そして残された人々で懸命に工事を続け、10年の歳月を経て1930年に烏山頭ダムが完成しました。
当時、東洋一の大きさを誇るものでした。
その後、嘉南平野は穀倉地帯へと生まれ変わりました。
台湾の人たちはダムを見渡す丘に八田の銅像を建てました。
そして八田の物語は台湾の教科書にも載っていて、今でも彼の命日には毎年その銅像の所で慰霊祭が行われています。
まとめ
日本人の活躍によって、日本は今でも世界の人々に愛されているのですね。
私たち日本人でもあまり知らないエピソードばかりで驚きました。
そして日本人の「諦めない心」や「誇り」に感動しました。
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